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舟越桂とバンクシー
2012.05.04 Friday
「舟越桂とバンクシー」
なんてタイトルで文章を書く人間なんて、
世界中探しても多分おれだけだなっ(笑)
昨日の日記でも書いたのだけれども、
国立国際美術館へ行って、
改めて、舟越桂の作品は凄いと感じたので、
改めて、文章を書こうと思ったしだいです。
舟越桂はわりと普遍的に評価されている作家なので、
少しでも美術に興味があれば知っている方も多いと思います。
日本人で、一番美術館に所蔵されている作家でもあります。
そんな作家さんを改めて、
僕がなんやかんやと書くことも面白くない(笑)
そこでバンクシーをだしてみました(笑)
正直な話、
舟越桂とバンクシーを同じ視線で、
並列的に評価できる人間ってそんなにいないと思いますよっ。
まず、多くの人は同じ土俵にのせないでしょうね(笑)
そのへんが、僕の美学者としての強みかなと思います。
僕自身、もともとストリートカルチャーに影響を受けた、
ただの、ストリートキッズだったので。
ビースティーボーイズに熱狂し、
映画「キッズ」のハロルドハンターに憧れ。
毎日、スケボーとクラブとSEXに明け暮れた、
そんなバックグラウンドがあるからこそ、
舟越桂とバンクシーを同じように評価する事ができます。
というか、
舟越桂も日本では絶大に評価されていますが、
バンクシーも西欧では絶大に評価されています。
なので、
いまさら僕ならではと言ってしまうのあれなのですが、、、
ここで、僕がいいたいことはようするに、
「審美眼」です。
舟越桂もバンクシーも全然違うスタイルのアーティストですが、
そこにある「美」は同じだと言う事です。
よく、こういう人がいます。
「古典的な絵画の良さはわかるが、現代美術はよくわからない」
この、言葉。
僕からするとおかしな事を言っているのです。
古典的な絵画の中にある「美」も、
現代美術の中にある「美」も、
同じなのに、
逆に、僕からすれば古典的絵画を読み解く方が、
よほど難しいのです。
僕は、もともと。
ストリートカルチャー、ストリートアート、グラフィティ等に、
魅了され、「美学」を志しました。
僕が、魅了されたものはなんなのか?
ただそれを知りたくて。
必死に学びました。
それを少し知ると、
古典的な絵画などと、
ストリートから生まれるアートも
普遍的な「美」は変わらない事に気づきます。
今回、舟越桂とバンクシーという、
似ても似つかないアーティストを取り上げてみたのも、
皆さんが普遍的な「美」を手に入れ、
しっかりと「審美眼」をもって判断してほしいと思ったからです。
ジャンルやコミュニティなど、
私たちの真の「視線」を遮るものは多数あります。
それらをしっかりと見極める「視線」をもちましょう!!!
現代アート
現代美術
「コレクションの誘惑」展(大阪・中之島 国立国際美術館)
2012.05.03 Thursday
皆様、ご機嫌いかがでしょうか???
今日は一日、国立国際美術館で居りました。
とりあえず、午前中は1人で展覧会を観て、
午後から、ギャラリートークに参加致しました。
今回のギャラリートークが、
京都造形芸術大学准教授の竹内万里子さん。
ギャラリートークも良かったのですが、
なんとも竹内万里子さんがお美しい!!!
知的で、清楚で、淑やかで。
あんな方と、結婚したいですなぁ(笑)
京都造形芸術大学の学生さんらしき女子もいっぱいいましたが、
僕にはその若さよりも、
大人の色気に心動かされます(笑)
まぁ、その話はおいとい〜てっ(笑)
展覧会のお話を、、、
今回の国立国際美術館の展覧会は、
企画展というよりも、コレクション展の要素が強いので、
正直、展覧会全体の圧力というものはありません。
2フロアーのうち、
1フロアーが絵画等、
1フロアーが写真等、
という、感じです。
ちなみに、
今回のギャラリートークは写真等のフロアーのみでした。
京都造形芸術大学准教授の竹内万里子さんも、
写真のほうがご専門のようなので。
しかし、私的な考えではありますが。
写真というものをカテゴライズするのは、
少しばかり無理があるのかと思います。
写真そのものの芸術性というのは、
はじめから限界がみえていて、
あくまで、素材として捉えるべきものだと思っています。
なので、例えば、
「鉄」とか「木」とかわざわざカテゴライズしないでしょ??
なので「写真」って、
わざわざカテゴライズして展覧会するのは、
違和感だらけやし、
全くもって視野が狭すぎるのです。
故に、
写真そのものの芸術を追求するのではなくて、
写真という概念、
写真というアウトライン、
写真という記録性、
そういったものが、芸術性を飛躍させるわけで。
「写真」そのものは、
「木」「鉄」「粘土」「絵具」、
そういった、
素材以上でも、素材以下でもないんだよねっ。
だから、逆説的には。
そのもの自身には芸術性が薄いからこそ、
それを、どう料理するか、
どう芸術性を飛躍させるかという、
余白が、多分に残っているという事でもある。
それが「素材」になりうるって事だねっ。
僕自身も、
「写真」というのは結構使うのですが、
それはあくまで「素材」としての意味で使うのであって、
「写真作品」じゃないのですよぉ。
例えば、
インスタレーションの写真、
パフォーマンスの写真、
写真を概念的に皮肉った作品、
なんか、
最近、写真をフィーチャーしたがってる傾向があるけど、
それって結局、
マーケットがあって、愛好者も多い。
そんな背景があるのかな?
僕には、
現時点で、
「写真」そのものの「芸術性」は低いとしか思わないし、
実際に、「芸術性」も感じない。
これは、あくまで僕の意見なので。
現代アート
現代美術
「美しい物を、美しいと思える、貴方の心が、美しい」
2012.04.27 Friday
ふとっ、
思い出したっ。
「美しい物を、美しいと思える、貴方の心が、美しい」
と、昔ある人に言われたのを思い出した。
その時は、
その言葉に対して、深く考える事もなく。
ただ、美しい言葉だと思った。
でもよくよく考えてみると、
この言葉が、とても美しいのは、
美の本質、芸術の本質、
強いては、人間の本質を見事に表現しているからではないか。
僕たちは、
まわりの環境や、事、物が、
客観的に存在していると確信している。
しかし、
本当に?「客観的」に存在しているのだろうか??
目の前にある、車や自転車、テレビやソファー。
これらは、
私たちの頭の中がつくり出しているものではないのか?
すなわち、
私たちが観ているすべてのものは、
主観的にしか存在しえないのではないか???
私たちは、
全ての人々が同じ視線を共有していると確信している。
しかし、
一人一人の視線は確実に違っているのではないか?
あの人が、「みえている世界」と。
私が、「みえている世界」は全然違うのでは??
それは、例えば絵画や彫刻を鑑賞するということを考えれば、
その視線の違いは明らかである。
貴方と私がみえている「世界」は違うのである。
それは、
「世界」が主観的に存在していることの証明でもある。
では「世界」が、
主観的に存在しているのと、
客観的に存在しているのと、
何が変わるのか???
それは、まさに人間の生きる「目的」が変わるのである。
私たちは、
ひたすら客観的な世界を確信し、
しかし、
その客観的な世界では、
「生きる目的」を少しもみつける事はできない。
それは、そのはずである。
そもそも、
私たちは客観的な世界になど生きてなどいないのだから。
私たちは主観的な世界に生きているのであって。
その主観的な世界での「生きる目的」は、
私たち「自身」なのである。
ではその目的をより「美しく」、より「崇高」にするには、
それは「知」を広げていくしかないのである。
私たちは、
自分自身を「目的」とし、
「知」を広げ、
より「視線」を洗練させること。
それは、
芸術性を知る事であるのです。
私たち、人間は、
芸術性をより知る事で、
より豊かな「世界」をみる事ができるのです。
「美しい物を、美しいと思える、貴方の心が、美しい」
とても、美しい言葉。
現代美術
現代アート
映画「ニーチェの馬」(第七藝術劇場)大阪・十三
2012.04.20 Friday
これは歴史的な大作だ・・・
この映画を観らずして、映画を観たといえるだろうか??
まさに映画「ニーチェの馬」は、歴史的な大作です。
この映画に出会えた事を心から心から感謝致します。
【ストーリー】
1889年トリノ。ニーチェは鞭打たれ疲弊した馬車馬を見つけると、駆け寄り卒倒した。そのまま精神は崩壊し、二度と正気に戻ることはなかった。
どこかの田舎の古い家。
疲れ果てた馬と、飼い主の農夫と、その娘。暴風が吹き荒れる6日間の物語。
ハンガリーの鬼才タル・ベーラ監督の最新作。
徹底的に排除された台詞、極限まで削ぎ落とされた演出、そこには生と死に向き合う静謐なモノクロームの世界が広がる。映画の枠を超え芸術の真髄に触れる至上の2時間34分。
あなたは映画の歴史の目撃者になる。
つい先日第七藝術劇場(大阪・十三)で、
映画「ニーチェの馬」を鑑賞してきました。
ただただ震えんばかりの知的興奮を、
もう見終わって一週間ばかりたってもおさまらない。
本当に、歴史の証人としてこの映画に立ち会う事ができました。
私の命がある時代に、このような映画と出会えた事は奇跡です。
例えば、映画好きなら誰でもしっている、
アルフレッド・ヒッチコック。
彼の映画はほんとに素晴らしい、
映画としても、映像としても。
しかし、所詮アルフレッド・ヒッチコックは歴史上の人物です。
私は、今、この時代にタル・ベーラの「ニーチェの馬」と、
同時代に共存している事にとても興奮します。
まず最初に、タル・ベーラの「ニーチェの馬」、
のどこが素晴らしいのか??
それをわかりやすく表現してみましょう。
例えば先に名前をだしたアルフレッド・ヒッチコックは、
映画として映画作品として最高峰と言えるでしょう。
では、タル・ベーラは??
映画を超えた映画作品として、芸術として素晴らしいのです。
私たちは、この映画を観る事で多数の絶望を覚えるでしょう。
まず一つに、もうこれ以上の映画はでてこないのでは??
この映画は、映画としての極限を超え、芸術と化していますが、
その上で映画たりえている。
映画たりえた上で、映像インスタレーションと化している。
まさに、映画を超えた映画作品であり、芸術作品であるのです。
ここから映画「ニーチェの馬」の私なりの考察。
まず、
この映画を最初から最後まで観る事自体もハードルが高いです。
正直、知性の無い方、には到底最後まで観る事はできません。
そういえば、友人に最近「ニーチェブーム」らしいと聞いたので、
その点では、若干分かる人も多くいるかもしれません。
まずこの映画で私たちはある種の「絶望」を観る事になるのです。
しかしそれは、まぎれもない私たちの生活なのです。
冷酷なまで無機質な映像に、
永遠とループされた音楽が流れています。
台詞はほとんどありません。
約2時間30分、
その冷酷なまでの無機質な映像と、
永遠とループされる音楽が続きます。
そして、淡々と「馬」と「農夫」と「娘」の生活。
その、中でも台詞は幾ばくかあるのですが、
それはほんの少し、それは映像に対する少しばかりのヒント。
僕なりの考察を深めていきましょう。
この映画をまず理解しようとするには、
ニーチェの哲学・思想である「永劫回帰」、
少しばかりでも理解している必要があるでしょう。
また「馬」というものが、
ニーチェが精神を崩壊したエピソードからもってきている事、
それも頭に入れておく必要がある。
まず、「永劫回帰」という哲学・思想に対して、
どういう認識をもっているかにもよるのだが。
私には「永劫回帰」は「絶望」だと認識している。
人間は「永劫回帰」という思考に飲込まれると、
精神が崩壊してしまう。
それを体現したのが「ニーチェ」であり。
それの象徴が「馬」なのである。
しかし「永劫回帰」は、
哲学・思考におけるブラックホールであり「絶望」なのだが、
逆説的に「絶望」にこそだけ「希望」を観る事ができる、
と言えよう。
「永劫回帰」は逆説的ではあるが、
人間が唯一もてる「希望」でもあるのである。
この映画「ニーチェの馬」はその「永劫回帰」を、
具現化、映像化、映画化したものと簡単には言えよう。
「馬」「農夫」「娘」がほぼ同じ一日一日の映像が、
六日間続く。ただそれだけの映画なのだが。
その六日間をしっかりと考察してみると、
同じ毎日の食事、洗面、着替えなどを、
微妙に違うカメラ割りで撮影している。
なので一日目と二日目の映像は違うのだが、
食事、洗面、着替えという行動は同じなのである。
それがひたすら六日間続く。
あるとき私たちは気づくはずである、
今は何日目???
そう昨日も、今日も、明日も、
ほとんど同じ日々を送っている??
いや、よく考えていくと、
これは六日間といいながら、
同じ一日の映像ではないか???
いや、逆に1年の映像とも言える。
だんだんと、「永劫回帰」の思考に飲込まれていく。
そもそも、一日目がはじまりだったのか?
六日目が始まりのような気がする。
まさに「永劫回帰」である。
実は、この映画には始まりも終わりもないのである。
と、簡単な考察ですがもっと書きたい事はあるのですが、
まずは観てほしい!!!
特に、美術やデザインなどのクリエーターには必須です!!!
絶対、観て損はしません。
最後に、
映画「ニーチェの馬」を観て「絶望」に打ち拉がれた人に。
この映画を観てある種、「絶望」を抱くでしょう。
それは「ニーチェ」同様、
「永劫回帰」の哲学・思考に飲込まれてしまうからです。
「昨日」も「今日」も「明日」も無いという思考。
しかし、私たちはそこから小さな希望をもてるのです。
それは「シュミラークル」と言って良いでしょう。
「昨日」と「今日」は少し違う、
「今日」と「明日」もまた違う、
私たちの「絶望」とは。
「日々」や、様々な「物」、「事」、が全く同じで、
全く違わないということなのです。
すなわち少しの違いや、
質的な違い、
「シュミラークル」は
まさに人間にとって、
ささやかで、
もっとも大切な「希望」であるのです。
現代美術
現代アート
映画「鬼に訊け」(第七藝術劇場)大阪・十三
2012.04.14 Saturday
映画「鬼に訊け」を第七藝術劇場で観てきました。
と、この映画「鬼に訊け」の僕なりの感想を述べたいのですが、
それ以上に、、
次に続けて観た、
映画「ニーチェの馬」が強烈すぎて(汗)
映画「鬼に訊け」が薄らいでしまったのが本音ですっ。
この映画「ニーチェの馬」については、
今後どこかで話そうと思いますが、
なかなか消化できなさそうです。
では映画「鬼に訊け」の私なりの考察。
宮大工棟梁・西岡常一さんのドキュメンタリー映画で、
建築などが好きな方には面白い?記録??なのかも???
もちろん西岡常一さんの功績や仕事は貴重なもので、
それをしっかりと記録し、
後世の人々の一つの学びの資料??
としては有効な映像かもしれません。
ただ、映画という作品としては疑問ではあります。
これはドキュメンタリー映画全般に言える事ではありますが、
「映画」として「作品」にどう映像を料理するか、
というのは、
ドキュメンタリー映画では失敗と成功がわかりやすい。
確かに、「ジャンル映画」として割り切ってもいいのですが。
建築好きな人は観に行って下さい(笑)
少し話しがずれるのですが。
この日が公開初日だったらしく、
監督さんの舞台挨拶がありました。
舞台挨拶は初めての経験(ワクワク)
山崎佑次という監督さんで、
映画よりも、舞台挨拶の方が僕はよかったかなぁ〜(笑)
ちなみに開演前に、
入り口前の喫煙スペースで煙草を吸っていて、
横にえらく紳士なおっさんが煙草吸ってるなぁ〜と、
思っていた、
その人が山崎佑次監督でしたぁ(汗)
現代アート
現代美術
「君を”今”抱きしめたい」ギブス
2012.04.07 Saturday
今日は難しい話はよそう・・・
ただこの曲を聞いてほしい、
僕がとても感銘を受ける曲。
今日は難しい話をするのはよそう・・・
mixiやfacebookにアクセスするたび、
幸せそうな結婚式の写真、ウエディングドレスの写真。
周りはどんどん「結婚」していく。
若干の寂しさも感じるのだけれど、
また、楽しみとも言える。
それは、自らが「結婚」という変化をするのだろうか?
という一点につきる。
「愛」とか「恋」とかほんとにあるのかわからないけど、
人生の「パートナー」は必要だ。
ただ、僕には「結婚」という形式的なこだわりは無い。
ただ、「今」真に抱きしめあえるパートナーが欲しいだけだ。
それが、最終的に「結婚」という形になるかもしれない。
それは「呼称」が変わったに過ぎない。
椎名林檎の歌詞の中に、
あなたはすぐに写真を撮りたがる
私はいつもそれを嫌がるの
だって写真になっちゃえば
私が古くなるじゃない
この歌詞はとても「芸術」的だ
写真を残す?という人も多いが、
写真自体はネガでもデータでも古くなっていく。
あたかも、写真の中では「永遠」を得たかのように「仮象」する。
いくら年齢を重ねても、古くならないのは。
「今」の自分だけなのに・・・
「ギブス」というと、
なんとなく「今をとどめておきたい」のように感じます、
それは少しネガティブな印象を持ちます。
しかし、歌詞を読んでいくと、
「今をとどめておきたい」というよりも、
過去や未来でない「今」この瞬間ギブスのように、
固く抱きしめあっていたい。
そのような「今」愛し合うことの重要性を強く感じます。
明日になれば、嫌いになるかもしれません。
それはだれにもわからないのです。
ただ、わかる事は。
「今」こうして「僕」と「君」が強く抱きしめ合っている、
それだけなのです。
もしかするとそれを「愛」と呼ぶのかも知れません。
この、歌詞にはとても芸術性を感じるので、
紹介させて頂きました。
現代美術
現代アート
3.11 (東日本大震災から1年)
2012.03.11 Sunday
3.11 東日本大震災から1年が経ちました。
震災で犠牲になられた方々にご冥福をお祈りします。
東日本大震災というクライシスを日本は体験し、
そして1年がたち、
まだまだ復興には至っていない現在。
また誰もの心が癒されていない現在。
私たち日本人は、
東日本大震災をどう受け止め、
どう考え、
どう前へ進んで行くのでしょうか?
原子力発電所の問題、
福島原発は当然まだまだ廃炉には至りません、
10年、100年かかる話です。
まず、私たちに何ができるのでしょう???
日本全体、日本人全員が何ができるのでしょう?
私はただ一つだと思っています。
ただ一つ。
しっかりと「考え続ける」事しか無いと思います。
この「考える」「考え続ける」事。
それは東日本大震災の以前から起こっていた現象、
「考えない」現象への転換点ではないでしょうか。
今まで、私たちは「考えず」に生きる事に疑問をもたなかった。
ある意味、そういった社会構造だったわけですが、
東日本大震災が起きてから、
私たち日本人はもう一度、一人一人の国民が。
「考える」
社会を構築していかねばならないのでは無いでしょうか?
東日本大震災から1年。
私は東日本大震災のみならず、
原発問題、
日本全体の問題、
それらをしっかりと「考えて」いきたいと思います。
現代美術
現代アート